舘ひろしの父は医者!二浪で医学部断念、俳優へ転身後石原軍団で活躍

こんにちは、ブロガーのいちにょです。主婦の皆さんに役立つ情報をお届けします。今回は、舘ひろしさんに注目していきます。

俳優として、また歌手としても知られる舘ひろしさんですが、彼の背景には、医者の家系という意外な事実があります。

舘ひろしという名前は、日本のエンターテイメント業界で長年にわたり知られています。舘ひろしさんの父親が医者であること、そして彼自身が二浪の末に医学部への道を断念し、俳優として輝かしいキャリアを築いたことは、多くのファンにとって興味深いエピソードです。舘ひろしさんのご実家が名門の代々続く病院であったという生い立ちから俳優への転身、そして石原軍団での活躍まで彼の魅力に迫ります。是非最後までお付き合いください。

 

 

舘ひろしプロフィール

舘ひろし(たち ひろし)さんのプロフィールは以下の通りです。

  • 本名: 舘 廣(たち ひろし)
  • 生年月日: 1950年3月31日
  • 出生地: 日本・愛知県名古屋市
  • 身長: 180 cm
  • 血液型: A型
  • 職業: 俳優、シンガーソングライター、タレント、キャスター
  • 活動期間: 1975年 – 現在
  • 主な作品:
    • テレビドラマ: 「西部警察シリーズ」、「あぶない刑事シリーズ」、「ゴリラ・警視庁捜査第8班」、「刑事貴族」
    • 映画: 「暴力教室」、「男組少年刑務所」、「あぶない刑事シリーズ」
  • 受賞歴: 日本アカデミー賞優秀主演男優賞(2018年『終わった人』)、ブルーリボン賞主演男優賞(2018年『終わった人』)、モントリオール世界映画祭最優秀男優賞(2018年『終わった人』)、旭日小綬章(2020年)
  • 配偶者: あり
  • 事務所: 石原プロモーション → 舘プロ

 

 

あらためて、舘ひろしさんはお若く見えましたけど72歳にもなるんですね。歌手としても俳優としてもその才能と魅力を発揮して、舘ひろしさんは、その長いキャリアを通じて、多くの映画やテレビドラマで活躍されていますね。

 

 

舘ひろしの医学部への挑戦、それは家族背景が影響

舘ひろしさんの父親は内科医であり、名古屋市に「舘医院」を開業していました。今はお父様も他界し、残念ながらその「舘医院」は廃業しています。

舘ひろしさんの家族は、代々続く医者の家系であり、舘ひろしさんの弟も医師として「舘ハートクリニック」を開業しています。

 

舘ひろしさんのご両親がどんな教育をされていたのか興味があります。少し紹介しますね。

 

そもそも舘ひろしさんの家族は、非常に興味深い歴史を持っています。彼の父親は名古屋で開業医をしており、舘家は医者の家系として知られていますが、さらに舘家は武士の家系であり、ご先祖様は尾張藩の武士だったと言われています。代々受け継がれてきた住まいは、徳川家から拝領した「徳川家の離れ」とも言われており、その家系の格式の高さが伺えます。舘ひろしさんのご実家は「武家屋敷」とも言われているんですよ。

 

舘ひろしさんの父親は「男子たるもの紳士たれ」という口癖を持ち、その精神は舘ひろしさんにも受け継がれました。子供に対してもしっかりと謝ることができるなど、その人柄が伺えるエピソードがあります。

 

舘ひろしさんの母親はとても厳しい方で、舘さんが小学1年生の頃には、三重県の四日市市にあるお母さんの実家に行くのに、ひとりバスに乗せられ向かったという話もあります。勉強に対しても厳しく、長男である舘さんに医者になることを強く望んでいたそうです。

 

このように、舘ひろしさんの家族は、医者としての名門でありながら、紳士的な精神を大切にする家庭環境で育ったことがわかります。

 

舘ひろしさんは父親が内科医であり、「舘医院」の院長だったので、長男としての責任や期待もあり自然と医学部を目指す環境にありました。舘ひろしさんは愛知県内屈指の進学校に進学しました。

 

 

舘ひろしさんの進学した高校は、愛知県立千種高等学校です。この高校の偏差値は68とされています。舘ひろしさんは愛知県立千種高等学校に1965年4月に入学し、1968年3月に卒業しています。

 

しかし、舘ひろしさんは高校進学後次第にバイクに夢中になり、有名医科大を受験するも全て不合格でした。二浪して医学部を目指し努力しましたが、結局は二度の浪人生活を経ても医学部への道は閉ざされてしまいました。その後、舘ひろしさんは千葉工業大学の建築学部に入学しましたが、芸能活動との両立に苦労し、最終的には10年の歳月をかけて卒業しました。

 

この長い学生生活は、彼の粘り強さと情熱を物語っていますね。

 

舘ひろしの俳優への道

 

舘ひろしさんが俳優を目指すきっかけになったのは、東映の社長に見いだされ、東映俳優センターに入ったことから始まります。もともとは医師を目指していましたが、医大に入学できず、建築系の大学に入学。しかし、休学し、バイクや音楽に夢中になり、矢沢永吉さんの「キャロル」の親衛隊として活動していました。その後、ロックバンドでデビューし、1976年に映画「暴力教室」で俳優デビューを果たしました。

 

舘ひろしさんが俳優デビューを果たした映画「暴力教室」は、1976年に岡本明久監督によって制作され、松田優作さんが主演を務めた日本映画です。

 

舘ひろしさんは、不良生徒のリーダー・喜多条仁役を演じました。松田優作さん演じる体育教師・溝口勝利と対立する役どころで、舘ひろしさんの演じる喜多条は、学校の管理体制に反発し、その他の不良生徒たちと共に学校内外でやりたい放題!はまり役ですね。

 

松田優作さん演じる溝口教師は元プロボクサーであり、喜多条たちを力で抑えつけようとします。映画では、先生と生徒の対立がエスカレートしていくんですが、舘ひろしさんの存在感は光ってます。

 

「暴力教室」は、舘ひろしさんの鮮烈な映画デビュー作として知られ、舘ひろしさんのキャリアのスタートを飾る重要な作品となりました。

 

舘ひろしさんが石原軍団の一員であるのは有名ですが、舘ひろしさんが石原軍団に入ったきっかけは、テレビドラマ「西部警察」に出演したことです。1979年にこのドラマでの役が評価され、その後、石原プロモーションに入ることになったのです。石原プロモーションは、石原裕次郎さんが立ち上げ、渡哲也さんが遺志を継いだ会社です。

 

石原軍団での活躍については、舘さんは「西部警察」の撮影でのエピソードを披露しています。集合時間に遅れた石原良純さんを、渡哲也さんが舘さんに「シメとけ」と命令し、舘さんは言われた通りに良純さんをボコボコにしたところ、渡さんが止めに入ったという話がありますよ。

 

舘ひろし石原軍団で社会貢献

 

舘ひろしさんは、石原軍団の一員として、様々な社会貢献活動に参加してきました。特に記憶に残るのは、2011年の東日本大震災の際に行った炊き出し活動です。震災発生から約1カ月後に宮城県石巻市に入り、渡哲也さんらと共に7日間で1万5000食を提供しました。この活動では、被災者の声を直接聞き、被災地の状況を見て回り、体験を通じて被災者を支援しました。

 

また、舘ひろしさんは「石巻げんき食堂」と名付けられた炊き出しで、渡哲也さんがハーモニカで「故郷」を奏でる中、自身のヒット曲「泣かないで」を歌い、被災者を励ましたというエピソードがあります。この時、舘ひろしさんは感極まって歌えなくなるほどで、被災者と共に涙を流したと語っています。

 

これらの活動は、舘さんが石原軍団の一員として、ただの俳優に留まらず、社会に対して積極的に貢献していることを示しています。彼の社会貢献への思いは、石原プロモーションが業務を終えた後も変わらないそうです。

 

舘ひろしさんは、石原プロモーションでの経験を通じて、俳優としてだけでなく、人間としても大きく成長したと語っています。

 

石原軍団での経験が舘ひろしさんのキャリアにとって非常に重要なものになったようですね。そして、石原プロモーションの社是である社会貢献の精神は、舘さん自身の活動にも大きく影響を与えていますね。

 

まとめ

 

舘ひろしさんの人生は、医者の家系という背景から始まりましたが、彼は自らの道を切り開き、芸能界での成功を収めました。医学部への挑戦、建築学部での長い学び、そして芸能界での輝かしいキャリア。これらは、彼の多才さと魅力を物語っています。

 

いかがでしたか。

これまでこの記事が、皆さんのお役に立てば幸いです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。それでは、また次回のブログでお会いしましょう。バイバイ。👋

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